丸山重威 (関東学院教授)【いまを読む−若者のためのメディア論】(1)/オバマ次期大統領の登場の意味  アメリカ民主主義の「底力」/08/11/07   

 


【いまを読む−若者のためのメディア論】

◎オバマ次期大統領の登場の意味

アメリカ民主主義の「底力」  

丸山重威 (関東学院教授)

 米国の大統領選挙で、次期大統領に民主党のバラク・オバマ候補が当選しました。米国史上初めての黒人大統領です。

 

 「国の可能性を疑い、建国者たちの夢や民主主義はまだ生きているのかと問う人たちがまだいるとしたら、今夜がその答えだ」「この国は単なる個人の集団でも、民主党と共和党の寄せ集めでもなく、アメリカという合衆国なのだ」「希望へ向けて、歴史の舵をとる日がやって来た」「解決には時間がかかる。1年、いや1期をかけてもたどり着かないかもしれない。だが約束しよう、われわれは1つの国民として、必ずそこへ到達すると」−。

 

 開票速報をCNNの同時通訳で聞きながら考えたのは、「明らかに世界が大きく変わってきている」ということでした。

 

 そう簡単なことではない。しかしもしかしたら、本当に世界中に民衆のための政治が実現できるかもしれない。あまりにも単純すぎるかもしれません。しかし少なくとも私は、この危機の時代に生きる同時代人として、そこに希望を持って語ろう…。そう思わせる演説でした。

 

▼民衆を無視できない世界

 

演説会場だったシカゴの公園には、20万人を超す人々が押しかけていました。涙を流して歓喜する人々と対照的に、テレビで見るオバマ氏の表情は、勝利とか歓喜とかいうこととはほど遠い、これからの難しい道のりを改めて噛みしめているようかみしめているような、落ち着いた真剣な表情だったことが印象的でした。記憶しておきたいのは、そのことです。

 

 既にさまざまな論評がされています。いわく「ブッシュの8年間がひどすぎた。人々は変革を求め、チェンジの訴えが広く受け入れられた」「300万人の支持者リストと莫大な募金が力になった」「黒人であることを訴えるのではなく、米国人だ、と言った訴えが成功した」…。恐らく、それはすべて正しいのだろうと思います。

 

 しかし私には、何より意味があるのは、彼がこれまでのブッシュ家とかケネディ家とは違って、本当に貧しい黒人移民の父親と白人の母親の家庭に生まれた「庶民の大統領」だった、ということだったのではないかと思います。

 

 そのことによって、これまで、善意であったかもしれないのですが、「力任せ」で、反省もなく、すべてを「正義」と信じて自らの政策を押しつける鼻持ちならない「単独行動主義」のアメリカが変わって、実際にはかなり難しいことはわかっているのですが、国際協調を重視し、貧しい国、経済的、軍事的に虐げられた人たちの目線で、米国の舵取りをしてくれるかもしれない、というほとんど感覚的でしかない感情が広がっているからではないか、と思えてなりません。

 

 いま世界は、米国が支配する「カジノ資本主義」とさえ呼ばれた金融経済が、結局破綻し大騒ぎになりました。そこでは、英国だけではもちろん、「G7」と言われるような先進国だけでも解決できず、世界各国が協調していかなければとても対応できいなくなっているような世界があります。グローバル化した世界は、いまや「民衆の声」を無視して動くことはできなくなっているのです。

 

▼「平等」への願い

 

 オバマ氏の演説を聴きながら、改めて思い出したのは、大学時代に聞いたケネディ大統領の就任演説でしたし、公民権運動の中で伝えられたマーチン・ルーサー・キング牧師の演説でした。

 

 もちろん直接聞いたわけではありませんし、いまのようにCNNのライブで聞いたわけでもありません。1961年のケネディ大統領演説は、当時出始めていた、ビニールのような樹脂に音源を刻印したソノシートの雑誌でしたし、1963年のキング牧師の演説は、多分短いテレビニュースと、映画館にかかっていたニュース映画だったと思います。そんな時代でした。

 

 歴史をひもとくと、公民権運動が始まったのは、1955年ですから、私は当時中学生でした。高校に入って、留学経験がある英語のA先生が人種差別の話をしてくれました。「バスも別。学校も別です」と話した先生が「君たちは大丈夫、白人の座席に座れます」と言ったことも記憶しています。ニュースでは例によって「暴動」が大きく取り上げられていましたが、その「暴動の正当性」は、あまり論じられていなかったように思います。

 

 いま、キング牧師の演説を改めて読み返すと、オバマ氏の演説に涙する人々の思いがよくわかる気がします。

 

 「私は同胞達に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。それは将来、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢なのだ。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫と、かつての奴隷を所有した者の子孫が、同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。今、差別と抑圧の熱がうずまくミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わり得る日が来るという夢が。私には夢がある。私の4人の小さい子ども達が、肌の色ではなく内なる人格で評価される国に住める日がいつか来るという夢が」…。

 

 オバマ氏は勝利演説で、1929年の世界恐慌や人種差別が激しかった時代を生きてきた、ジョージア州アトランタで投票した106歳のアフリカ系米国人女性のことを紹介しました。「この国のいい日も悪い日も見てきた彼女は米国は変われるということを知っている。われわれの子どもたちが彼女のように長生きできたら、その時米国はどんな変化を、どんな進歩を遂げているだろう」と語りました。

 

 この感覚こそ、新しい世紀にとって大切なものだと思えてなりません。今回の選挙では、なんと2,400万人もの人が期日前投票のために投票所に押しかけ、投票日も多くの人が何時間も並んで投票をしたというのです。そんな人々の中から生まれた大統領であるからこそ意味があるし、何よりそういう国民の民主主義の底力を感じてなりません。

 

▼人類のために何ができるか考えよう

 

もう一つ、ケネディ大統領の就任演説と重なって感じたのは、オバマ氏が「この国は単なる個人の集団でも、民主党と共和党の寄せ集めでもなく、アメリカという合衆国なのだ」と説いたことしたし、さまざまな課題を挙げて、「解決には時間がかかる。1年、いや1期をかけてもたどり着かないかもしれない。だが約束しよう、われわれは1つの国民として、必ずそこへ到達する」と語り、「『人民の人民による人民のための政治』は、なお滅びていないと証明した」と強調、「私に投票しなかった人々にも言いたい。皆さんの声に耳を傾けたい。私は皆さんの大統領にもなる」と述べたことでした。

 

 いま、アメリカは自らが招いたイラク戦争の泥沼に足を取られ、「これは戦争だ」と短絡して始めたアフガニスタン問題でも、むつかしい状況に追いつめられています。ソ連との冷戦が、いつ熱い戦争になり世界を滅ぼしてしまいかねないという状況だったケネディ大統領の時代とは違いますが、核戦争の危機や、地球環境、経済の危機は一層深刻だと言っても言いすぎではありません。

 

 1961年1月、就任したジョン・F・ケネディ大統領は、やはり、「今日のわれわれの勝利が、政党の勝利ではなく自由の勝利だということを祝おう。それは、始まりとともに終わりを象徴しており、変化とともに再建を示している」と述べ、米国の歴史を思い起こしていました。そして、彼は「わが同胞よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか」と呼び掛けました。

 

 オバマ氏もこの日、共和党支持者に対しても「我々は敵ではなく友人だ。あなたの助けが必要だ」と呼びかけています。

 

 アメリカの大統領は大変な権力を持っています。世界を動かすほどの力を持っていることは確かですが、同時に、それだけに、いまは、軍産複合体とか、石油産業とか、あるいはイスラエルロビーとか、国内外のさまざまな潮流が政治を動かそうとし、影響を与えます。その中で、オバマ氏が「変革」を志したにしても、それが容易でないことは彼が言っているとおりです。

 

 しかし、オバマ氏が演説したグラント公園は、1968年の民主党大会でベトナム戦争反対を叫ぶ市民らが多数逮捕された場所でもあります。「チェンジ」「イエス、ウィ、キャン」を叫ぶ人々の中には、そんなアメリカを変えたい人たちの思いも詰まっていることは間違いないと思います。自らの言葉でこうした歴史と理想を語り、人々に呼び掛ける姿勢。私はここに米国の民主主義を改めてみる思いがするのです。

 

▼私たちは何を学ぶか

 

「人種超え『変革』選択 国際協調路線へ転換」−5日の毎日新聞夕刊は、見開きの大見出しをこう掲げ、米国の変化に期待をかけました。他紙には見られないいい感覚だったと思います。

 

 恐らく6日付以降では、オバマ政権になったら、日本にどのような影響が出てくるのか、貿易は保守主義になるのか、北朝鮮政策はどうなるのか、テロ対策は、といったことが数多く論じられるのだろうと思います。麻生首相は、「誰が大統領になろうと日米同盟に揺るぎはない」などと、相変わらず、どこかに「敵」を求める「同盟論」でしか、ものを考えてはいないようです。しかし、それでいいのでしょうか。

 

 私は、そこで私たちが考えなければならないのは、オバマ政権になったら日本への要求がどうなるか、といった小さな視点ではなく、日本は世界に向かって何を訴え、どういう国づくりをして人類全体の福祉に貢献できるのか、ということではないかと思います。

 

いま書いたとおり、世界はみんなが幸せになるにはどうしたらいいか、を考え、そのための運動が民衆自身の手で進められる時代に入っています。

 

 日本の憲法9条が国際的に評価され、大集会が開かれましたし、「G8」には世界のNGOが集結して自らの主張を発信しました。

 

 私たちは、国際社会を「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」と認識し、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言した日本国憲法を持っている国民です。そしてその「あかし」として、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ことを決め、「戦力」を持たないことも決めたのです。

 

 これは私たちの先輩がアジアの民衆と世界に誓ったことばです。憲法はそうした世界の人々の「生存権」をベースに、国民にも「健康で文化的な最低限度の生活」を保障し、それを政府に義務づけたのです。

 

 いま、そのことを改めて考え、日本の政治も新しい感覚、つまり「庶民=民衆の視点」で、「変革」していかなければ、結局取り残されることになってしまうのではないのでしょうか。

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 いま世界はどうなっているのか、どうニュースを読むべきか。若い人たちと一緒に考えていきたいと思います。どうぞご意見をお寄せください。

 

 2008.11.6